カルチュラルタイフーン

 本日6月24日と昨日は、カルチュラルスタディーズ学会「カルチュラルタイフーン2018」に参加してきました。京大で起きている立て看規制の問題について、知ってもらうために、プラ板の「タテカンカフェ通信」やビラを配布しました。反応はまずまず。詳しい報告はまた今度できればと思います。

 以下は、会場で配布したビラです。

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主体的な表現活動を制約するタテカン規制に抗議します

 学生らの重要な表現の手段である立て看板がいま、大きく規制されようとしています。昨年の12月19日に「京都大学立看板規程」の制定を京大は公表しました。この規程では従来キャンパス内外の様々な所に出されていた立て看板を大学が指定する場所にしか置いてはいけない、と定めました。さらに、立て看板の設置者、設置期間、大きさなども決められています。5月1日からこの規程は施行され、規程に違反する看板などの強制撤去が行われています。

学内の声を聞かず 

 2018年2月には学内諸団体が、「学生との話し合いのないままこのような規程が制定されたことは、学生の主体性を軽んじ、その自由な活動を制約するものであり、到底容認することができない」として、話し合いを求める要求書を文書で出しましたが、大学当局は、「『京都大学立看板規程』は既に大学として決定されたものであり、話し合いの場は設定しない」とメールで回答しただけでした。さらに、立て看板規制は学生どころか、教員の会議体でも十分に話し合われていないことが分かっています。3月の学生生活委員会(学生の課外活動などを話し合う全学の委員会)では、委員から、立看板設置について、この件について学生と話し合うように委員会として求めたいという動議がなされました。しかし、動議は、「賛否双方の意見があったため」に議決をしないことになってしまいました(公開されている議事録より)。もはや立て看板規制は、執行部と一部の事務の暴走によって進められています。現に、山極総長自身が、「市の指導に対して学内で相談して決めるのかといえば、そうではない。執行部が適切な答えをするしかない」(立て看撤去「対話できる訳ない」 京大総長、法令順守を強調 : 京都新聞)と、執行部の独走を認めています。


当事者の主体性を軽視

 立て看板はこれまで、学生を中心とした京大で活動する当事者が、主体的な活動の一環として、用いてきた表現手段です。使い方は様々で、自らの思想・信条に基づいた主張、大学当局や社会の不正を糾弾する主張から、自らの開催するイベントの告知、新規構成員の勧誘などがありました。そして、設置者は当然、その看板が通行人などに危険をもたらさないような配慮をしてきました。
 こうした立て看板に対する規制は、学生ら主体性を軽視しています。一方で、産業界で「使える人材」としての「主体性」は称揚されます。そして、現在の大学は、こうした産業界の要請に対してはただちに応じます。それは、大学法人の経営陣に産業界のトップが名を連ねているからであり、企業からのお金を多く受け入れることで企業体としての大学法人を経営しているからです。しかし、企業体としての大学では、学生の自発的な「主体性」というものは排除されます。「経営者」たちに都合の悪い主体的な活動はなかったことになされます。
 学生は、なにも「大人」の言うことをよく聞く、受動的主体なのではありません。大学というコミュニティのいち構成員であり、そして、一政治的主体なのです。そのことを認めない現在の大学のあり方の一つが、当事者との話し合いも当事者への説明も果たさない表現活動の抑圧である、立て看板の規制です。


思考停止の「コンプライアンス

 たしかに、「京都市屋外広告物等に関する条例」や「道路法」というものがあり、それに従うように求める圧力が京大当局にはたらいていたことは事実です。ただ、そこで、問うべきはそうした法令が、表現活動を大幅に制限することの妥当性であって、学内にまで規制をかけることではなかったはずです。現に、屋外広告物規制の法令には、必ず上位規定である憲法上が保障する「表現の自由」に十分配慮することが定められてもいます。「ルールはルールだから」というのは、ただの同語反復以外のなにものでもありません。権力がルールを振りかざして表現活動を抑圧しそのルールが妥当なのか問う声を無視することは許されません。
 しかし、実際に起こったのは、学生諸団体による話し合いの求めを拒否すること、設置をし続けた看板の強制撤去でした。執行部は、丁寧な合意形成をはかるのではなく、実力によって異論を封じ込めることを選択したのです。話し合いなどで、法令にも配慮しながら表現活動を尊重することも選択肢としてあったはずであるのに、まるで、反対する学生らはいないものとして排除されました。

何を問うべきか

 ここで私たちが問うのは、一部の執行部による大学の私物化と、当事者の主体性とその発露である表現活動の軽視・一方的制約です。これを問うとき、それは権力側に対してだけでなくわたしたち自身に対して向かいます。そもそも、「入試」という恣意的な選別によって、「学生」という地位は与えられています。その者だけに表現を認めようとする、その排除に基づく特権を「京大の文化」として守ろうとする、だけでは不十分です。表現主体を合意形成から排除する動き、主体的な表現活動を一方的に制約する動きを身近なところから問わなければなりません。また同時に、表現活動の内実、設置時の安全確保は様々な立場からの批判を踏まえ、在り方を再考する必要があります。一方的な規制は、こうした思考の機会を奪ってしまうという点でも問題です。

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